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11/04/04:震災後三週間
震災後、何度かここに文章で考えていることを書いて、自分の得た情報や気持ちの推移を後で見られるようにしておきたい、それはその時々の発露にもなると思いましたけど、次々に色んな事が起きたのもあって、結局三週間経ってようやく。
地震、津波、原発事故の三つの危機の現状はそれぞれ、地震は余震が治まりはじめ、津波被害の復興はまだ本格的には始まっておらず、原発事故は一向に好転していない。と認識しています。
この危機をまねいた反省からくる「古い価値観からの脱却」という希望的な論旨に対して、震災前から「古い価値観」に度々うんざりしていた私としてはそれなりに義務感や期待を持っています。色んな人がおっしゃっているように、後悔とともに良くなるしかないと思います。
この変化のきっかけとして、これ以上に最悪で身に沁みるようなモノは戦争以外に思いつきません。折しも、ついこの間まで表現の規制や情報の統制などから「今日本の風潮は戦前と似ている」とささやかれている最中での出来事だっただけに、覚悟を固めたような固めきれていないような半構えの姿勢から突如巻き込まれ、半ば夢から目が覚めたような気分でもあります。
ともあれ事態は起きてしまい、状況はこのまま進みます。私は一介のフリーのイラストレーターで現実的な手助けや社会的貢献など、ほんの些細な事しかできません。どちらかといえば社会に甘えて生きているような身分かとも思います。
そんな立場ではありますが、社会の空気の一部である事は確かです。今回、「古い価値から脱却」するための障壁として、よく言われる、既得権益を守る人々を許してきた社会が批判される事もよくわかりますが、その他の姿が見えない壁としての「空気」の大きさも実感しています。
意図はなくとも流されてしまい、何となく人まかせにし、立場を引いて冷笑したりすることでわずかな優越感を得る事はできますが、それこそ古い価値感の中に含まれるのではないかと思います。
そんな事をしていても事態は良くならず、喉元を過ぎた頃に同じ事を繰り返すのが関の山かと思われます。
その部分を意識していれば、例え同じ事が起きたとしても少なくとも後悔の度合いは減るのでは無いかと考えるんですがいかがなもんでしょうか。
ここまでは自分一人で考えたことではなく、震災前後の色んな人の意見を読み、擦り合せた結果の意見です。
読んだ意見は被災された方々からの覚悟を伴った真剣な言葉であると考えます。
ここからあまり根拠のない懸念なんですが、その真剣な覚悟を持った人達に、直接的に被災していない西日本に住む私の意識は追いつけるでしょうか。「古い価値感からの脱却」は震災直後から今日までの雰囲気を見ていても、そうそう簡単にできるような気はしません。気付いた人は早くから声をあげています。
苦難を共有した人達の間でさえ難しいことを、変わらず生活できている人間はどう支える事ができるのか。
いくら頭を働かせても寄り添う立場以上の経験値は得る事ができません。
急な例えでなんですが、死地を乗り越えたサイヤ人のチカラに対抗できるだろうか?九州は乗り遅れた意識の島に成り得るんじゃないだろうか?というのが、最近の心配事です。とりあえず、会った人とできるだけこういう話をして、自分と相手の考えを混ぜたいと思います。
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